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司馬遼太郎 菜の花の沖(6) 高田屋嘉兵衛 遭厄記 [日記(2018)]

新装版 菜の花の沖 (6) (文春文庫) 【高田屋嘉兵衛 遭厄】
 ゴローニンの『日本幽囚記』には、嘉兵衛を拉致しゴローニン事件に関わったディアナ号の副艦長リコルドの「手記」も添えられているそうです。第6巻は、この「リゴルドの手記」と嘉兵衛の聞き書き「高田屋嘉兵衛 遭厄自記」、および嘉兵衛が帰国後に松前奉行にさし出した「上申書」、嘉兵衛が兄弟などに宛てた手紙が元資料となっています。したがって、創作というよりノンフィクションの性格が強い「巻」です。

 ゴローニンが捕縛されたため、残されたディアナ号では副艦長のリコルドが艦長となってゴローニン救出の指揮をとります。ゴローニンの生死を確認するために日本人の拉致を画策し、この網に捕らわれたのが高田屋嘉兵衛。

 嘉兵衛は観世丸で択捉のシャナを出港し泊湾で35人の乗員とともに拿捕されます(1812年9月)。リゴルドは嘉兵衛を緋羅紗の縄梯子を用い「登舷礼」でディアナ号に迎えます。嘉兵衛を船長以上の将官として遇したことになります。リゴルドは嘉兵衛を艦長室に招き入れ、上座に座らせ砂糖入りの紅茶と菓子でもてなしいます。絹の紋服に羽織袴 、脇差を一本帯びていたこともあるでしょうが、リゴルドは嘉兵衛のなかに一介の船長以上の人格を認めたということでしょうか。

 以下、出来すぎのようにも思うのですが、作者は双方の資料を突き合わせていますから実話です。

 リコルドは嘉兵衛を尊敬を込めて「コマンディル(指揮官、隊長、艦長)」と呼び(後に「タイショウ」と呼ぶ)、艦長室で起居をともにします。牢に入れられたゴローニンに比べると、大変な厚遇です。言葉が通じないため意思の疎通が十分にできず、ゴローニンの安否は確かめ得ない間に日が過ぎます。10月(旧暦)になると海が荒れるため、リコルドは一旦カムチャッカに引き上げ春を待ってゴローニン開放交渉を再会することにし、交渉を有利に進めるため嘉兵衛を含め6人の捕虜をカムチャッカに連れてゆくことになります。5人は自ら志願して捕虜になったようです。アイヌがひとり混じっていますが、択捉での嘉兵衛が如何にアイヌに支持されていたかの証拠でしょう。この5人のうち3人がカムチャッカで亡くなります。


 9月12日(旧暦)、ディアナ号はカムチャッカへ向けて出港します。出港に際し、観世丸の水食料をすべてディアナ号のために移し(結果的には、この食料によって嘉兵衛たちはカムチャッカで生き延びた)、観世丸で身の回りの世話をさせていた若い女”つね”をディアナ号に連れてこさせます。嘉兵衛は、”つね”とリコルドを接触させロシア人もまた普通の人間であるということを(解放後)報告させようとしたわけです。フヴォストフ事件以来こじれた日露関係を修復しようという嘉兵衛の深謀遠慮です。リコルドは茶菓で”つね”をもてなし、”つね”は、ディアナ号に乗っていた軍医夫人と交歓します。ついで、観世丸の乗員をディアナ号に招待させ船を見せます。水主たちに和船と異なるロシア船の構造を見せたかったということもあるでしょうが、”つね”同様の目論見があったのでしょう。リコルドは、観世丸の水主をウォッカでもてなし、さながら日露友好の場となったということです。

 カムチャッカへ向かうにあたり、嘉兵衛は会所の役人、高田屋の弟たちに手紙を書きます。

其時(拉致されてゆくとき)公辺御役人への遺書とて、此度、 魯 西 亜 船に 召捕れ、 罷 越 候(ロシアへゆくことになりました)……此上は、両国和平の儀、 相 願、何分にも 宜 敷 取 計 申 度 心底 に御座候。
「人質になった以上は、両国の和平のために、なんとかよき方向に持ってゆきたいのが心底です」(作者訳)
なにとぞ異国に参り、よき 通詞 に出会ひ、かけあひ致し候はば、 夷 地(註・北方の海や島々)もおだやかに相成り申すべき事もこれあり、いつまで(註・このさき際限もなく) 所所 を(註・ロシア人たちが)騒がすやうでは、我国のため 悪しく候。……日本のため、悪しき事は致し申さず、 只 天下の為を存じをり候。

  淡路島の農民に生まれた嘉兵衛が、船頭となって商品経済に接し日本各地を巡る間に、天下の為に日露両国の和平を考える人間になったのです。この後、嘉兵衛はゴローニン事件を解決しますが、この天下の為と日露両国の和平の考えが大きく働いたこととなります。

【カムチャッカ】
 水晶島沖でディアナ号は難破しかけ、嘉兵衛の操船によって難を逃れたことでリゴルドの信頼はさらに厚いものとなります。カムチャッカでも、嘉兵衛たちの住まいは堂々たる丸木普請の屋敷であり、しかも海軍少佐リコルドと同室、他の五人の者もおなじ屋内で暮らすように手配されます。

 たがいに「タイショウ」と呼び合うリコルドと嘉兵衛は、ゴローニンを釈放させ嘉兵衛たちが日本に帰るためには、意思の疎通が第一と考えます。嘉兵衛は地元の少年にロシア語を学び、リコルドは嘉兵衛から日本語を学び、時に抽象的な会話までこなせるまでになります。ふたりは、ゴローンの逮捕はフヴォストフ事件が原因であり、フヴォストフの暴挙が私的なものでありロシアに侵略の意図がないことを公的な文書で日本側に伝えればゴローニンは釈放されるという意見の一致を見、リコルドは文書の取得に尽力します。
 面白いのは、帰国できない時に備えて嘉兵衛が討ち死にの準備をしていることです。

万一、帰国 不 相成 一時ハ、少人数ながら三人一致して戦死いたし 可 申 旨 相談 候……
今、我、彼等に国家の義気の尖く烈しき事を示し、彼等が目を 驚 し、縦令 死し候とも、当国に名を残し 度……

 一介の船頭が「討ち死に」?とも思うのですが、嘉兵衛は、有無を言わさず拉致され、仲間三人を失うという屈辱のなかにあります。このまま拉致が続き帰国の希望が絶たれれば、彼等に国家の義気の尖く烈しき事を示そうというわけです。この時期、嘉兵衛は幕府の定御雇船頭という役人であり、苗字帯刀を許されていますが、嘉兵衛のなかにナショナリズムのようなものが芽生えていたのでしょうか。
「討ち死に」のために剣技の稽古をし、目つぶしの灰の袋を用意し、ディアナ号の火薬庫に火をつけて自他もろとも爆死するという企てのための火薬の用意もします。嘉兵衛、本気です。

【ゴローンの解放】
 春になって氷が緩み、1813年4月嘉兵衛を乗せたディアナ号はカムチャッカのペトロパヴロフスクを出帆します。出帆に当たってロシア側から一旦ストップがかかります。
 リコルドの「手記」によると、ロシア政府はゴローニンが生きているとは信じていず、報復のための艦隊を編成するから出港はしばし待てという知らせたったようです。リコルドは命令を無視し、嘉兵衛を信じて出港します。リコルドと嘉兵衛の信頼関係によって日露の衝突がからくも回避されたことになります。

 旧歴5月26日、ディアナ号は国後島泊湾に至り、嘉兵衛は水主ふたりを先発として幕府のクナシリ陣屋上陸させ、続いてゴローニン釈放を求めてに陣屋に赴きます。嘉兵衛はゴローニン救出の切り札(人質)で、逃亡すればゴローニン救出は振りだしに戻るわけです。リゴルドは嘉兵衛を信じ上陸させます。フヴォストフ事件でこじれた日露関係を修復し、北の海に安全を取り戻すというその嘉兵衛と、嘉兵衛を信じるリコルド。泊湾で、国境を越えたふたりの人間のドラマが演じられたことになります。

そこで、私はこの尊敬すべき日本人と袂 を分ち、自分の持っていた白いハンカチを二つに切って、その半分を渡しながら、こういった。「お前さんがおれの親友なら、明後日か明明後日か、遅くともその翌の日までには、あと半分のハンカチを持って来るにちがいない」 嘉兵衛は、信頼できる断乎たる声で、「死にさえしなければきっとこの約束を守る」、と答えた。「中一日置くんじゃなくて、明日の朝にはきっとお前さんの 艦 に帰って来るよ」

 嘉兵衛は、約束通りハンカチを持って翌日の朝ディアナ号に戻ります。まるで『走れメロス』です(笑。ゴローニンは9月26日に釈放され事件は解決します。大黒屋光太夫とキリル・ラクスマンの物語に劣らず、嘉兵衛とリコルドの物語は感動的です。
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司馬遼太郎 菜の花の沖(5) [日記(2018)]

菜の花の沖(五) (文春文庫)  第五巻は、高田屋嘉兵衛を離れほぼロシアの話です。嘉兵衛が関わる「ゴローニン事件」の前段ですが、作家のロシアへの思い入れが込められた(お馴染の)長い余談です。

【露米会社】
 ロシアは、重要な財源のひとつである黒貂やラッコの毛皮を求めて、シベリア、カムチャッカ半島から千島列島に南下(膨張)します。乱獲で減少した獣を追って、シベリヤから樺太、カムチャッカ半島へ千島列島へと東進、南下しますが、もう一つ理由が日本。国立日本語学校まで設立して示した日本への熱意は、獲った毛皮を売る市場として(ヨーロッパ同様に日本でも毛皮が売れるという誤解)、中国市場への中継点として、また食料供給地(ビタミンC)としての日本です。毛皮を遠いヨーロッパまで運んだり猟師のために食料をシベリヤ経由で運ぶよりも、そこに日本があるじゃないか、というわけです。

 これを熱心に推進したのが毛皮業者シェリコフとその女婿で帝国の商務官でもあったレザノフ。毛皮は国庫を潤す大切な財源ですから、ロシアはシェリコフの商売を援助し、シェリコフは「露米会社(米=アラスカ、1867年までロシア領)」を作り、帝国もこれに出資し会社は半官半民の国策会社となります。大黒屋光太夫を伴って根室に来たラクスマン、漂流民の津太夫らを伴って長崎に来校したレザノフはいずれも日本に通商を求めての来日です。女帝エカテリーナ二世は、日本との通商を開くために光太夫を庇護しています。レザノフもアレクサンドル1世の国書をたずさえ来日していますから、日本との国交樹立は、露米会社を媒とした国策ということができます。

【フヴォストフ事件(1806~7)】
 クルーゼンシュテルンの世界一周航海を後援し、通商を求めて長崎に現れたのが、シェリホフの女婿で露米会社のレザノフ。レザノフは、鎖国をたてに通商を断られ体よく追い払われます。では実力行使だというわけで、海軍大尉フヴォストフに命じて日本に喧嘩を売り通商の道を開こうとします。海軍大尉が民間会社に雇われて軍事行動を引き起こすことからも、露米会社の性格が想像できます。
 レザノフは皇帝に上奏し許可を求めますが裁可が下りず、レザノフはペテルブルグに走り、フヴォストフは実施に踏み切ります。カラフトのアニワ湾に上陸して番屋を襲い、さらに択捉島のシャナの幕府会所を襲い略奪と日本人拉致を繰り返します。このシャナで間宮林蔵が奮戦しているそうです。

【ゴローニン事件(1811)】
 フヴォストフ事件で、ロシアの船を悪魔の如く恐れている国後に、ゴローンのディアナ号が現れます。ゴローンは、クルーゼンシュテルンに続き世界一周航海と千島列島の測量のためにクロンシュタットを出港し、喜望峰を経てはるばる国後にやってきたのです。食料を求め泊湾に入ったところを幕吏によって捕縛されます。ロシアは、フヴォストフ事件で拉致略奪と樺太千島をさんざん荒らし回っていますから、ゴローニンも同類と見なされたわけです。ディアナ号副艦長リコルドは、ゴローニン救出の人質として嘉兵衛を拉致します。リコルドと嘉兵衛の努力によって、ゴローニンは1813年に釈放され事件は解決に至ります。事件としてはこれだけのことですが、『菜の花の沖』は、国を異にし言葉も通じないロシア人と日本人、リコルドと嘉兵衛が、ゴローニン救出のために作り上げた友情?とそれを支えた人しての誇りの物語です。

 黒貂の毛皮がレザノフ外交、フヴォストフ事件、ゴローニン事件を起こし、リコルドと高田屋嘉兵衛の友情を育て、ゴローニンの『日本幽囚記』を生んだことになります。捕鯨船の食用燃料供給基地として日本に通商を求めたペリーと共通点があり、面白いです。

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映画 アバウト・シュミット(2002米) [日記(2018)]

アバウト・シュミット [DVD]  『手紙は憶えている』に続いて「老人」映画です。『手紙は憶えている』は認知症を使ったミステリでしたが、『アバウト・シュミット』の主題は「定年」。2002年の公開ですから「ベビーブーマー」世代が定年を迎える少し前、そういう意味では時代にコミットした映画です。

 保険会社に40数年努めたウォーレン・シュミット(ジャック・ニコルソン)は66歳で定年を迎えます。サラリーマンが定年で仕事を失うと毎日どうしていいか分からない。四六時中顔を合わせる妻の行動がひとつひとつ気に障り、元の職場を訪ねても当然シュミットのいる場所は無く慇懃無礼に追い出される始末。よく分かります(笑。子供でも同居していれば少しは緩和されるのでしょうが、一人娘は遠くに暮らしているという設定。TVで知ったアフリカの途上国の子供支援プログラムに申し込み、6歳のンドゥグの里親となります。ンドゥグに手紙を書くわけですが、書いている間に中身は愚痴の羅列となり、怒りが爆発する有様。

 そんな折、妻が突然亡くなります。仕草のひとつひとつが気に障る妻でも、亡くなってみると愛おしくなるわけですが、遺品を整理している間に妻宛のラブレターを発見し、妻の過去の浮気を知ることとなります。浮気相手がどこの誰とも分からなければいいのですが、これが友人!。「オレの人生は・・・」と懐疑的になり落ち込んでいる時に、これは踏んだり蹴ったりです。

 ひとり娘が結婚することになりますが、この相手が気に入らない。結婚をやめろと言って娘からも嫌われる始末。「オレの居場所は何処にあるんだ!」状態で、キャンピングカーに乗って故郷やかつて学んだ大学を訪れる自分探しの旅にでます。日本なら四国遍路か道の駅の車中泊になりそうですが、10mもある巨大なキャンピングカーと設備の揃ったキャンプ場で、まことにアメリカ的なロードムービー。

 娘の結婚式では父親としてそれなりのスピーチをし、気に入らない婿の家族とも何とか折り合い、自宅にかえり着きます。待っていたのは、ンドゥグの手紙。字の書けないンドゥグは返事に絵を書いて送ってきました。それがこれ、と絵を見たシュミット氏 →オチです。

シュミット1.jpg シュミット2.jpg
 「定年」をカリカチュアすればこうなる、という映画です。取り立ててどうということはないのですが(ちょっと身につまされますが)、持って行き場のない怒りというものをジャック・ニコルソンが見せてくれます。これから定年を迎える方にはお薦めの一本です(笑。

 監督は『サイドウェイ』『ファミリー・ツリー』のアレクサンダー・ペイン。

監督:アレクサンダー・ペイン
出演:ジャック・ニコルソン キャシー・ベイツ

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映画 手紙は憶えている(2015加独) [日記(2018)]

手紙は憶えている [DVD]  原題:Remember。90歳になる認知症の老人が、強制収容所アウシュビッツで家族を殺されたナチの将校に復讐するというホロコーストの後日譚です。

 老人ホームで暮らすゼヴ( クリストファー・プラマー)は、同じホームで暮らすマックス(マーティン・ランドー)からアウシュビッツのSS将校オットーへの復習を持ちかけられます。ふたりはオットーに家族を殺され、戦後70年が経って収容所者もナチも老齢となり、今やらなければ永遠に機会を失うというわけです。車椅子生活で自ら実行できないマックスが計画を練り、足腰のしっかりしたゼヴが実行する二人三脚。ゼヴは認知症で、昔のことは覚えているが直近の記憶は飛んでいるという設定がミソ。

 マックスは、オットーが”ルディ・コランダー”の偽名でアメリカに住んでいることを突き止め、ルディ・コランダーを4人にまで絞り込みます。認知症のゼヴは細かい計画を記憶することは困難であり、マックスは手順を手紙に書いて持たせ、ゼヴは腕に「手紙を見ろ」とボールペンで書きます。『博士の愛した数式』さながら。ゼヴはマックスの指示通り銃を手に入れ、マックスの手配したホテルに泊まり、列車やバス、タクシーを使って4人のルディ・コランダーの元を訪れます。

 1人目(ブルーノ・ガンツ)は北アフリカでロンメルの部隊にいた兵士。2人目は同性愛のためアウシュビッツに囚われていた元収容者。3人目は狂信的なナチズムの信奉者ですがSSの料理人で、3ヶ月前に亡くなっておりこれもシロ。4人目のルディ・コランダー(ユルゲン・プロホノフ)は、アウシュビッツの将校であった事実を認め、何時かゼヴが来ることを予測していたと語ります。そして、驚くべき真実が明らかになります。

 認知症をミステリーの小道具に使ったミステリーです。認知症を真ん中にすえれば、この映画の主題はホロコーストと復讐を越えてきわめて今日的な問題を孕んでいると思われます。
 クリストファー・プラマー(85歳)、マーティン・ランドー(87歳)、ブルーノ・ガンツ(74歳)、ユルゲン・プロホノフ(74歳)、と老人の映画です。第二次世界大戦が終結して70年が経つわけです。アウシュビッツの生き残りとSSの将校を現代に登場させるとなるとこうなります。

監督:アトム・エゴヤン
出演:クリストファー・プラマー ブルーノ・ガンツ ユルゲン・プロホノフ マーティン・ランドー  

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司馬遼太郎 菜の花の沖 (4) [日記(2018)]

新装版 菜の花の沖 (4) (文春文庫) 【オホーツク文化圏】
 18世紀後半、工藤平助が『赤蝦夷風説考』を著し、ロシアの南下に危機感を持った幕府は、調査隊を組織し蝦夷地の防衛・開発に着手します。これにともない、千島列島に渡った最上徳内、近藤重蔵、樺太を探検し間宮海峡を発見した間宮林蔵、松田伝十郎、北海道の命名者、松浦武四郎などの多くの探検家が現れます。1799年には、幕府は東蝦夷を松前藩から取り上げて直轄領とします。嘉兵衛の活動は、こうした北海道黎明期の中にあります。ロシアの南下と幕府の蝦夷探検の中に嘉兵衛を置いてみると、

  1599:松前藩、徳川家康に蝦夷地に対する支配権を認められる
  1705:サンクトペテルブルクに日本語学習所を設置
  1711:千島列島を探検し、国後島に上陸
  1719:松前藩、1万石格の大名となる
  1738:ベーリング探検隊の分遣隊が千島列島沿を南下、本州沖まで到達
  1739:牡鹿半島、房総半島、伊豆下田に探検船が来航
  1766:ロシア、国後場所に侵入、ウルップ島に到達
  1768:イルクーツクに日本語学校を設置
1769:淡路国津名郡都志本村に生まれる
  1778:ロシア船が蝦夷地を訪れて通商を求める
  1781:工藤平助、『赤蝦夷風説考』を著す
  1783:大黒屋光太夫、アリューシャン列島に漂着
  1785:最上徳内の蝦夷地探検(田沼意次)
  1789:クナシリ・メナシの戦い
  1792:ラクスマン、大黒屋光太夫を伴い根室に来航
1796:蝦夷進出
1798:弟の金兵衛を箱館の支配人
1799:国後島と択捉島間の航路を開拓、東蝦夷が幕府直轄となる
1800:択捉島で漁場を開く
  1804:レザノフ、津太夫を伴い長崎に来航
1806:函館火災の救援活動、文化露寇(フヴォストフ事件)
1807:函館に造船所
  1808:松田伝十郎、間宮林蔵の樺太探検
  1811:ゴローニン、国後島で捕縛
1812:カムチャッカに連行される
1813:保釈
1827:没

 
ロシアが日本語学校を設け次々と使節を派遣したのに比べると、日本の蝦夷開拓はお粗末の感があります。樺太、千島列島を含む蝦夷地は、北からロシア、南からに和人(日本)に蚕食され、まさにに両国の草刈場です。こうした日露がせめぎ合った歴史の下で、「日露和親条約」(1855)では、千島列島の択捉島と得撫島との間に国境線が引かれ、国境の定めがたい樺太は日露混住の地とされます。「樺太・千島交換条約」(1875)では、日本は樺太の権益を放棄し、ロシアは千島列島全島18島を日本に割譲することになります。北方四島問題の原点です。
 北海道、樺太、千島列島、カムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していたアイヌ(蝦夷人)は、アムール川下流域や沿海州、カムチャツカ半島の地域のツングース系民族、モンゴル系民族と毛皮や海産物の交易を行い、オホーツク海地域一帯に経済圏、文化圏を形成していたと考えられます。北海道の蝦夷人は、「ちょっと商売に行ってくる」と言って樺太や千島列島の島々にいったんでしょう。これは、古代において、朝鮮半島南部と九州北部が民族、経済的にひとつの文化圏を形成していたことと似ています。

 古代の日本列島には、本州グループ(大和文化圏)、九州北部と朝鮮半島南部グループ(渡来系文化圏)、北海道を中心とするグループ(オホーツク文化圏)の3つのグループ、民族、文化圏が存在していたと想像できます。この3つグループは、人類が日本列島に移動してきたルートの名残りでしょう。そういう意味では、黒潮に乗ってやって来た南方ルートの隼人グループもあります。農耕に支えられた本州グループが勢力を得て大和朝廷をつくり、他のグループを同化して今日の日本ができたわけです。この同化の最後が蝦夷であり、『菜の花の沖』の舞台です。『この国のかたち』や『街道をゆく』などを読むと、司馬遼太郎は、日本という国の成り立ちに並々ならぬ興味を持っていたことがわかります。この「成り立ち」が日本人と日本の歴史に大きな影響を及ぼしているということが、「司馬史観」のひとつです(当たり前と言えばその通りですが)。「蝦夷」の延長線上に本書があり、「渡来系」の延長線上に『韃靼疾風録』があるのでしょう。
 「日露和親条約」から今日の「北方四島」問題にわたる日露の問題、「白村江の戦い」から「韓国併合」を経ての日韓問題というのは、日本民族の成立と関わっているような気がします。

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【場所】
  蝦夷は株仲間が未成立で参入のハードルが低かったこともありますが(嘉兵衛は堺屋の名義を借りた廻船業者)、鎖国の日本では蝦夷は唯一のフロンティアであり、蝦夷が嘉兵衛の冒険心に火を付けます。
 蝦夷は米が獲れないため、鰊、鮭、昆布などの海産物で石高が算出されます。松前藩は、漁場(場所)を商人に請け負わせ、商人は蝦夷人を働かせて藩に運上金を納めるという制度の上に成り立っています。藩や商人による蝦夷人の扱いは苛斂誅求をきわめたようです。松前藩に批判的な嘉兵衛は、松前藩のやり方(場所請負制)を批判する幕府の蝦夷地御用の旗本・高橋三平、探検家・最上徳内と出会い、ますます蝦夷へと傾斜してゆきます。嘉兵衛は、勘定方吟味役で蝦夷での幕府の最高責任者・三橋藤右衛門の依頼で、幕府の蝦夷専門の廻船業者となり、(株仲間が制度化していない)箱館を本拠とし「高田屋」を立ち上げます。国後島と択捉島間の航路を開拓し、東蝦夷が幕府直轄となると択捉島に蝦夷人と倭人が共存できる「場所」を開拓し、蝦夷人を支援します。
 蝦夷地の防衛と開拓に関心を寄せる幕府と、蝦夷の鰊粕を上方に運びたい嘉兵衛の思惑が一致したことになります。

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備忘録 データの救出 [日記(2018)]

コピー.jpg エラー.jpg
 こちらの続きです。Windowsが立ちがらなくなったHDDからデータをコピーしています。

・OSの入ったSATEのHDDは、2台PCに入れることができない(ATAPIならmasuerとslaveがあるが)。USB接続してデータを移動すると遅い
・画像データは、windowsのカット&ペーストで何とかなるが、動画になると「巡回冗長検査(CRCエラー)」で失敗することが多くなる
・転送速度が30MB/s前後から、ひどい時には100K以下にダウンし、CRCエラーとなる。1Gを超える動画は失敗する確率が高い
・コピーソフトにはマッハCOPY、FastCopy、FireFileCopy、TERACOPYなどがある

・マッハCOPYでコケるファイルは、TERACOPYで移動可能となる確率が高い(できないものもある)

teracopy.jpg
教訓
・データは常に整理する →不徹底でした
・データは増設HDDに格納する →不徹底でした
・バックアップを取る →DVDにもやいているのですが、DVDそのものが何年保つか?
・クラウドを使う →Googleドライブ(100G)をつかっているのですが、溢れたデータが今回の救出対象。1Tにアップグレードしようかと、思案中。

・動画は、圧縮してファイルサイズを小さくし拡張子を統一しておく(MP4など?)
・デジカメの画像は、ベストショット以外は保存しない →これが一番重要かもしれません(笑。

 Windows10の修復とデータの救出で連休がまるまる潰れそうです(笑。

タグ:パソコン
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備忘録 windows10のブルースクリーン [日記(2018)]

DSC_6056.JPG DSC_6065.JPG
 自作デスクトップが立ち上がらなくなりました。起動すると、青い窓の下でワームのようなものがグルグル廻り、いっこうに立ち上がらない。たまに立ち上がるが激遅、ファイル移動が途中で止まってしまう有様。起動ディスクで修復を試みるも、修復できないとメッセージが出ます。apdateが悪さをしているようです。VIDEO_DXGKRNL_FATAL_ERRORエラー 0x113で、マイクロソフトによると

この問題は、AMD のドライバーは実行時の電源管理 (RTPM) をサポートしていませんが、インテルのドライバーは、RTPM をサポートしているために発生します。

 そう言えばAMD。作って5年、Win7→Win10へ無償アップグレードしたものですから、不具合が出ても仕方がないでしょう(dynabookは不具合は出ていない)。 cpuはAthlonⅡ×2で中身は古いですが、グラフィックカードが挿さっているので手持ちのパソコン3台の中では一番早い、かつディスプレイとアンプがあるのでDVD聴取用として便利 →なので何とかしたい。ここWindows Update のエラーを解決するを試みるも立ち上がりません。windows10のクリーンインストールをやってみました。

1)windows10 isoを落としDVDに焼く →windows7のプロダクトキーを使う
2)biosでDVDスタートに変更
3)インストールの種類は、カスタムを使う
4)使い回しのHDDなので、インストールするPCでHDDのパーテーションを削除→切り直し→フォーマット(これ大事、ハマりました)
5)インストールするHDDが見つからない場合は、DESKPART(Shiftキー+F10 キー)  →今回は実施せず
6)インストール完了

7)windows10が立ち上がる、この状態で復元ポイントを設定(コンパネ→システムとセキュリティ→システム→システムの保護)
8)ディスプレイアダプターのドライバを入れる(私の場合はRadeonHD3400 古い!) →ブルースクリーンは、このドライバがマイクロソフトの汎用ドライバだったことが原因
9)windows updateを停止する
10)高速起動を切る(コンパネ →電源とスリーブ →システムとセキュリティ→電源オプション →電源ボタンの動作 →高速起動のチェックを外す)
11)アプリケーションの導入
12)7~11で時々復元ポイント作成 →再起動、不具合が出れば復元ポイントに戻る

 というもので、書けば簡単なようですが修復、再起動、インストールを繰り返し連休の前半を潰しました(あと旧HDDのデータの救出が残っています)。ハードを変更していないので、認証も問題なし。動きも所謂サクサクで快適です、ヤレヤレ。cpuをPhenomⅡ、メモリを8Gにすれば、当分使えそうです。

 とりあえずアプリケーション
・Terapad →テキストエディタ
・7-Zip →解凍用
・Jtrim →画像編集
・Canonプリンタアプリ
・Chrome →ブックマーク同期
・VLC →DVD鑑賞用
・Evernote →個人的に必須
DSC_6066.JPG システム.jpg
やっとブルースクリーンから脱出

タグ:パソコン
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4コママンガ [日記(2018)]

BBQ.jpg オチ無し。

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オリエンタルポピー オオツルボ [日記(2018)]

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オリエンタルポピー アツミゲシ           オオツルボ
散歩の途中道端に咲いてました。
【画像追加】
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タグ:絵日記
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PCNetなんば店 閉店 [日記(2018)]

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 PC Netなんば店が閉店するようです。「19年のご愛顧」とありますから、1999年の開店の頃から通っていたことになります。向かいのビルの3Fにあったジャンク専門店で、ThinkPad360を買ったのが最初だったと思います。勤務先がミナミにあったので足繁く通い、ThinkPad560、TP310、x24、x31、r31、A20m、701、dynabookSS7000、SS1600、K33、R731と、いろいろ買っては遊びました。全部ジャンクですからあまりいいお客ではありませんね。ThinkPadブランドも今は昔です。 PT110を買ったT-ZONEは、最早会社さえ存在しません。
 PCNetのサイトを見ると殆んどの店が閉店です。スマホ、タブレット全盛時代に(陰りが出てますが)、usedやジャンクのパソコンを使おうという顧客が少なくなったのでしょう。時代と云えばそれまでですが。PCNetのジャンクでパソコンやネットワークを追いかけてきた身には、寂しい限りです。5/27にはジャンク中のジャンクを買ってみようかと思います。

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