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吉村昭 間宮林蔵 [日記(2008)]


間宮林蔵 (講談社文庫)

間宮林蔵 (講談社文庫)

  • 作者: 吉村 昭
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1987/01
  • メディア: 文庫


 教科書にも出ていると思うのですが、半島であると信じられてきた樺太が島であることを発見し、間宮海峡にその名を残しています。
 日本近海に異国船が出没しだした18世紀末から19世紀始め、農民から身を起こし、持ち前の好奇心と測量技術を武器に幕府役人となり、樺太や東韃靼の地まで至った探検家・間宮林蔵の一生を描いています。
 本書は、1807年のロシア船によるエトロフ島シャナ襲撃に遭遇した間宮林蔵から始まります。林蔵は戦う事を進言しますが、会所(幕府出張所)の責任者は退却を命じ、ロシア船の略奪を許す結果となります。後、戦わずして逃亡した会所役人達は咎めを受けますが、戦うことを主張した林蔵は許されます。作者はこれを林蔵の原体験に据えて物語を進めます。
 間宮林蔵は常陸の国の農家に生まれ、堤の改修工事に出張して来ていた普請役雇・村上島之充に見出されて12歳で下僕となり江戸に出ます。その後村上とともに蝦夷(北海道)に渡り測量の仕事に従事し、エトロフ島に至りシャナの事件に遭遇するわけです。当時の蝦夷はロシア船の略奪や艦隊の来航が頻発し、国防上騒然とした時代です。幕府は、北方防備のため地理上の空白地帯である樺太探検の必要に迫られ林蔵を派遣します。アイヌやオロッコ人が住む樺太はロシア領であるのか日本領であるのか不明確で、林蔵の様な軽い身分の者を派遣する必要があったのです。2度に渡る樺太探検で、林蔵は樺太が島であることを発見し、鎖国の国禁を犯してアムール川(黒竜江)を超えて東韃靼の地に至ります。これは後に老中の命で日本各地の動向を探る隠密・間宮林蔵を決定付けます。林蔵はスタートから幕府の隠密だったわけです。
 これらの探検を『東韃地方紀行』『北夷分界余話』にまとめ、『北蝦夷島図』を作成し幕府に提出します。これによって探検家・間宮林蔵の評価は決定的なものとなります。

 林蔵の事跡を見ると、まさに時代が生んだ人物であることがよく分かります。本書の面白さもこの点にあると思われます。この時代、農民町人が知識技術を武器に世に躍り出るひとつの典型でしょう。
 林蔵の人生にはキラ星の如く歴上の人物が登場します。最上徳内、伊能忠敬、川路聖謨、徳川斉昭、藤田東湖、渡辺崋山、ゴローニン(『日本幽囚記』の著者)、シーボルトなどなど。きら星の如く登場するわりに、彼らとの交流がサラリ書き流してあり、この点は不満です。特にシーボルト事件についてはその告発者との説があり、この経緯は面白いです。探検、地理と一方で時代の先端を走っていながら蘭学とは無縁であり、シーボルトの接触を幕府に届け出たことによってシーボルトの日本地図持ち出しを告発した濡れ衣を着せられわけです。事件後隠密として長崎に潜入し、長崎通詞を内偵するおまけまで付きます。

 小説が面白いかと云うと、それほど面白くはないです。多分作者もノッて書いているとは思われません。『天狗争乱』の、天狗党の降伏が論議されている部屋の片隅に20世紀の小説家が鬼幽の如く立っている、そんな作家の執念は感じられません。
 一介の農民から身を起こし、樺太探検、東韃靼探検、幕府隠密としての日本各地の探索、途上で出会う日本歴上の有名人、一生を旅に生きて旅に死んだ間宮林蔵の生涯は、面白くなくは無い筈なのですが。作者の間宮林蔵への思い入れが今ひとつなのでしょうか。
★★★

1780年 常陸国の農家に生まれる。
1792年 普請役雇・村上島之充の下僕とり江戸へ旅立つ(12歳)。最上徳内、樺太南部を探検。
1798年 村上に従い奥州に旅立つ(19歳)。
1806年 エトロフ島を測量。
1807年 エトロフ島シャナでロシアの襲撃に遭遇。江戸に召還される。
1808年 松前に戻るり、最上徳内を識る。4月松田伝十郎と樺太を探検、西岸をラッカまで到達。
      7月、単身樺太を探検。樺太トナイで越冬。
1809年 樺太北端ナオニーに到達、樺太が島であることを発見。さらに東韃靼を探検、アムール川を遡りデレンに至る。
      9月樺太白主に帰着。『東韃地方紀行』『北夷分界東韃靼』を脱稿、『北蝦夷島図』を作成。
1811年 江戸に戻る。ゴローニン(『日本幽囚記』の著者)捕縛される。樺太探検により、松前奉行支配調下役格に昇任。
     幕命によりゴローニンに会う。隠密行動の最初。
1813年 ゴローニン釈放。蝦夷西岸を測量。
1818年 蝦夷内陸部の測量を再開。
1823年 海岸異国船掛(隠密?)となる。シーボルト来日。
1828年 シーボルト事件
1830年 幕命により長崎を探索
1834年 享年老中大久保忠真の命により津軽、松前に始まる日本海沿岸探索に出発。
      日本海沿岸を南に下り、秋田、福井、鳥取、薩摩に至る。
1835年 薩摩の密貿易を探索し、四国、大阪を経て江戸に帰る。川路聖謨を識る。
1844年 死去(享年65歳)


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