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再読 遠藤周作 『沈黙』 [日記(2017)]

沈黙 (新潮文庫)
沈黙(新潮文庫)
再読 遠藤周作『沈黙』
 マーティン・スコセッシの『沈黙』が公開されるようです。篠田正浩が1971年に映画化していますから、二度目ということになります。見る前に遠藤周作の原作を再読しました。だらだらと長いので、小説の概要は以前に書いたこちらの方を見てください。
1638年、ポルトガル宣教師ロドリゴとガルペが五島列島に密航します。ふたりは、穴吊りの刑にあって棄教した師フェレイラの安否を確認し、追放と殉教によって司祭のいなくなった日本での布教を目指して密航を企てたのです。フェレイラは実在の人物、ロドリゴにはジュゼッペ・キアラというモデルがあります。

 当時の日本です。キリスト教は1913年に禁教となり、1920年代には多数の信徒が処刑されるという切支丹弾圧の時代です。ロドリゴとガルペ密航の前年1637年には島原の乱が起き、1939年にはポルトガル人は追放され鎖国が始まります。ふたりは切支丹弾圧の最盛期に日本に上陸したことになります。

 『沈黙』は、残虐な切支丹弾圧を前に神は何故”沈黙”しているいるのか?と問う司祭ロドリゴとその棄教に、ゴルゴダの丘で磔刑となったイエス、イエスを売ったユダを重ね、神の存在を問います。下世話に言えば、「神も仏もないのか!」という宗教文学です(笑。

【ロドリゴ】
 司祭ロドリゴは若いだけあって多感であり、懐疑的です。磔の十字架の上で「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(なんぞ、我を見捨て給うや)と叫んだというイエスの言葉を

(ロドリゴは)それを長い間、あの人祈りの言葉と考え、決して神の沈黙への恐怖から出たものだとは思っていなかった。
 神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。蝉がないている真昼、首を落とされた片眼の男の人生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったベルガの一生は滑稽だった。司祭は壁にむかって声をだして笑った。

 ロドリゴは、信徒への残虐な弾圧、自分自身捕まり拷問と処刑が予想される運命にさらされてはじめて、イエスの叫びは神の存在を疑う悲鳴だったことに思い至ります。もっとも、気力を取り戻した翌日ロドリゴはこれを否定していますが、遠藤なりの「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」の解釈でしょう。

【キチジロー】
 切支丹のキチジローはロドリゴを日本に手引きし、後にロドリゴを銀300枚で長崎奉行所に売ります。金貨30枚でイエスを売ったユダの役割です。『沈黙』は「神の沈黙」とともに、ロドリゴをイエスに、キチジローをユダに擬したイエスとユダの物語でもあるわけです。
 冒頭からラストまで、折に触れて登場するキチジローは、『沈黙』のもうひとりの主人公です。澳門で転び切支丹としてロドリゴの前に登場したキチジローは、ロドリゴを日本に上陸させ隠れ切支丹の集落に導きます。密告され捕縛されたキチジロー、モキチ、イチゾウは、ロドリゴの助言とおり踏み絵を踏みます。役人はさらに、聖母マリアを侮蔑する言葉を3人に要求し、キチジローは転びモキチとイチゾウは口にできずに切支丹として水磔に処せられます。キチジローはロドリゴに弁解します、

モキチは強か。俺らが植える強か苗のごと強か。だが、弱か苗はどげん肥やしばやっても育ちも悪う実も結ばん。オレのごと生まれつき根性の弱か者は、パードレ、この苗のごたるとです

さらにロドリゴを銀300枚で役人に売ります。デウスとロドリゴから離れがたいキチジローは牢屋に現れ、役人に自ら切支丹であることを告げロドリゴに告解(悔)を頼みます、

俺(おい)あ、踏絵ば踏みましたとも。モキチやイチゾウは強か。俺あ、あげん強うなれまっせんもん・・・じゃが、俺にゃぁ俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺を弱か者に生まれさせておきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい
・・・告悔ば、お願い申します。信心戻しの告悔をお願い申します

ロドリゴはこのキチジローをどう考えているのか?。キチジローの告悔を聴く箇所です、

人間のうちでも最もうす汚いこんな人間まで基督は探し求められたのだろうか司祭はふと考えた。悪人にはまた悪人の強さや美しさがある。しかし、」このキチジローは悪人にも値しないのだ。襤褸のようにうす汚いだけである。・・・「安らかに行け」と呟いた。

 キリスト教には、歎異抄の「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という思想はないわけですが、キチジローの存在こそが『沈黙』の根幹です(たぶん)。

【棄教】
 奉行所はロドリゴをフェレイラと面会させ棄教を促します。フェレイラは穴吊りの拷問によって転び、今では奉行所に協力する司祭です。ロドリゴがフェレイラによって転ぶ段が『沈黙』のハイライトです。
 ロドリゴは、牢番のイビキだと考えていた唸り声が穴吊りで苦しむ信徒の唸り声だとフェレイラに聞かされ、信仰が揺らぎ始めます。
 ロドリゴの棄教の真相が明かされます。ロドリゴとガルペは師であるフェレイラの消息を尋ねてはるばる日本にやってきたわけですから、フェレイラ棄教の謎が解かれる瞬間でもあり、同時にその「解」がロドリゴをも支配するというドラマティックな構成です。
 穴吊りされた3人の信者はすでに踏絵を踏んでいますが、ロドリゴが棄教しない限り拷問は継続されます。ロドリゴは教会を取るか信者を取るかの二者択一を迫られます。

私(フェレイラ)はあの声を一晩、耳にしながら、もう主を讃えることができなくなった。私が転んだのは、穴に吊られたからではない。三日間・・・このわしは、汚物をつめこんだ穴の中で逆さになり、しかし一言も神を裏切る言葉を言わなかったぞ・・・

わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここ(牢屋)に入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ。
・・・お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼らのために教会を裏切ることが恐ろしいからだ・・・
だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら
たしかに基督は、彼らのために、転んだだろう・・・
さあ、今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ

ロドリゴは踏絵を踏み転びます。『沈黙』をミステリと読むわけにもいきませんが、フェレイラ棄教の謎が解き明かされます。

私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけがご存知です。・・・あのキチジローと私にどれだけの違いがあると言うのでしょう。だがそれよりも私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている。
(踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ)

 切支丹弾圧の前でなぜ神は沈黙しているのか、そもそも神は存在するのか?。答えはありません。イチゾウとモキチはデウスに殉じ、キチジローは転んでも転んでもなお救済を求めてロドリゴに近づきます。転んだロドリゴもまた、教会の説く神とは別の新たな「主」=神を獲得したわけです。
 
 『最後の誘惑』という問題作のあるマーティン・スコセッシですから、『沈黙』をどう料理するのか楽しみです。

タグ:読書
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