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司馬遼太郎 最後の将軍 [日記(2017)]

新装版 最後の将軍 徳川慶喜 (文春文庫)

 徳川慶喜は大政奉還の後京都から大阪に逃げ出し、鳥羽伏見の戦いの最中に幕軍を捨てて軍艦で江戸に逃げ帰ります。300年続いた徳川幕府に引導を渡した最後の将軍ということになっています。薩長に屈服し徳川幕府を終焉に導いた旧体制の敗者のイメージです。何故ここまで徹底して逃げなければならなかったのか?。かねての疑問に答えてくれる”小説”です。

【尊王と歴史主義】

 慶喜は水戸藩の斉昭の七男に生まれ、一橋家に養子に入り第15代将軍となります。水戸藩は、この時代の思想潮流「尊皇攘夷」の総本山。藩主斉昭は幕府の参与となって尊皇「攘夷」をリードし、藩士も桜田門外の変、天狗党の乱を起こしています。もっとも慶喜に攘夷の熱狂はありません。

 水戸藩は、光國以来200年にわたって「大日本史」を編纂し続け、足利尊氏を逆賊、楠木正成を忠臣とする南朝を正統とする尊皇の藩。徳川家連枝の御三家であるにも関わらずで、朝廷と徳川幕府が対立した場合は朝廷に組すると噂されるほどの尊皇の意識が高い藩です。水戸藩は「大日本史」を編纂し続け、時代と人間を歴史の中に位置付ける歴史主義の藩でもあります。慶喜の血には尊皇と歴史主義が色濃く流れていることになります。

 司馬遼太郎は、「最後の将軍」慶喜の行動の謎を、水戸藩の尊皇と歴史主義の視点で描きます。

【大政奉還】

 将軍となった慶喜が直面したのが兵庫開港問題。朝廷と山内容堂(土佐)、松平春獄(越前)と伊達宗城(宇和島)、島津久光(薩摩)のいわゆる四賢候を集め協議をします。朝廷は勅許を出そうとせず、容堂は病欠、春獄と宗城は日和見、倒幕を画策し西郷、大久保に操られる久光は論議に加わろうとせず、慶喜は孤立します。結局は慶喜が押しきり開港に漕ぎ着けますが、作者は慶喜にこう言わせています、

百策をほどこし百論を論じても、時勢という魔物には勝てぬ。...時勢に乗ってくるやつ(久光)にはかなわない

 四賢侯会議とは言え、実態は、兵庫開港をネタに幕府の権威を失わせ攘夷の世論を背景に一気に武力倒幕に持っていきたい西郷・大久保と、命脈尽きかけている徳川幕府を必死に支える慶喜の闘いです。

 慶喜側はいうと決して一枚岩ではなく、将軍後見職以来の慶喜の政策に反対する勢力は慶喜の側近を次々に暗殺し、江戸城ではその尊皇思想から「二心殿」と呼ばれ、身内からも批判を浴びている状況にあります。


 と、まぁ四面楚歌の慶喜は、土佐藩から提案された大政奉還にあっさり、むしろ喜んで乗ります。

政権という荷物を御所の塀のうちに投げ込んで関東へ帰ってしまう。「あとは朝廷にてご存分になされ」というせりふさえかれは考えていた。

 薩長の言うままに難題を持ち込み、(例えば兵庫開港問題などで)イジメぬかれた慶喜は、朝廷に愛想をつかしていたわけです。”無能ぞろいの公卿とわずか数万石にすぎぬ収入で、日本政府が出きあがるはずがない。領地も金も人材も軍隊もない新政府になにができるか。関八州四百万石をもち、軍艦十数隻と歩兵数万を持つ徳川氏にたよらざるを得ないではないか。”やれるものならやってみろ!というわけです。

 統治能力のない朝廷に代わって、諸藩の合議制による政治体制(公議政体)が構想され、最大の領地と軍事力を有する徳川「藩」の実質支配が可能となります。ところが薩摩は一枚上手で、「倒幕の密勅」を偽造し、江戸でテロを行い倒幕を挑発します。

【都落ち】

 大政奉還の後、倒幕派(薩摩)は慶喜の官位と領地を取りあげる「辞官納地」(小御所会議)問題を起こします。八百万石を失えば江戸の旗本、官僚、幕府軍は存立基盤を失います。当時の京都の兵力は、会津、桑名を含め幕府軍は1万、それに対し薩長軍は3千。戦いを起こし京都を軍事占領し御所を押さえれば形勢は一挙に逆転、当然幕府軍は色めき立ちます。一触即発の事態のなか、慶喜は幕軍に大阪退去を命じます。一時的な勝利を得てもいずれ「時勢」には勝てないと考える「尊王と歴史主義」の慶喜は足利尊氏(朝敵)になることを恐れたというのが作者の見方です。さらに、京阪にいる限り幕府軍と新政府軍の衝突は避けられないと考えた慶喜は、薩摩討伐に逸る幕軍を捨て軍艦・開陽に乗って江戸に逃げます。おまけに、会津兵、桑名兵の暴発を防ぐため松平容保、松平定敬も同行させるという念の入れよう。

 と書けばそんなものかということになりますが、維新の革命側にあってもおかしくない慶喜の孤軍奮闘ぶりは見事というほかはありません。


【徹底恭順】

 江戸に帰った慶喜は上野寛永寺に籠り謹慎、その後水戸へ去り明治後は静岡に移り歴史の舞台から消えます。25歳で将軍後見職となり30歳で大政奉還し徳川幕府の幕を引きますから、政治の表舞台に登場したのはわずか5年。謹慎後は、旧家臣や明治の顕官にも会おうとはせず、写真や狩猟の趣味に生き77年の完結した人生を閉じます。この徹底恭順こそ慶喜の真骨頂でしょう。視点を変えれば、慶喜は明治維新を作った功労者のひとりと言えそうです。

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